限界集落の高校野球による13年間の軌跡

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若者の都会流出による過疎化

小さな村の分校野球部今でこそ「限界集落」という言葉が流行して村の過疎化が深刻な問題になっているが、今に始まったわけではなく2000年以前からすでにその傾向はあった。 最近では都会から離れて自然あふれる田舎は、自然や農業を好む若者が移住するようになってきたが、都会からちょっと離れた田舎はその魅力もない上に、若者は都会へ離れてしまい、高齢化と過疎化は改善されていない。

野球にかけた中津村の村おこし

和歌山県日高郡中津村(2005年に川辺町、美山村と合併して日高川町となる)は日高川中流域に位置し、平地はほとんどないため、集落は日高川沿いに集中している。林業が盛んで一時は人口も5,000人以上いたが、合併前は2,500人まで減少しており、村に唯一の高校の和歌山県立日高高等学校中津分校(以下、日高中津分校)も学生数が50人程度と減少傾向で分校閉校の可能性もあった。 そこで村がとった対策が野球部の発足だった。 しかし、野球部もなければ、野球経験者もいない、場所もない、とないないづくしな状況だったため、部よりも先に後援会ができてしまった。野球部がないのに後援会ができるという笑い話だが、住民の本気度が伺える。

小さな村の分校野球部

日高中津分校の野球部が1997年の第69回選抜高等学校野球大会に出場したことは大きな話題となったが、甲子園に出場するまで、そしてその後の苦労が「小さな村の分校野球部―村びとがささえた日高中津分校の大きな夢」に書かれている。 本書は「弱くても勝てます」―開成高校野球部のセオリーのような野球必勝法ではなく、野球部が無かった分校が甲子園に出場するまでの監督や村関係者の悪戦苦闘ストーリーである。

成功は村民と野球部員の交流

和歌山県の有望な中学生は大阪や智弁和歌山などの有名校に進学するため、当然のことながら日高中津分校に有望な学生が入学するわけではない。そのため、甲子園出場を果たすのに10年以上かかった。それでも、有望な学生が入ってくるようになったのはここには他の強豪校とは違う考え方がある。 今でこそ日高中津分校の学生の大半は越境入学した野球部員で、村出身の野球部員も数名しかいない。しかも、私立校並みの立派な野球専用グランドもある。だから、野球学校とも言われかねないが、それでも他の強豪校と違うのは、「ランニングしてる時に村人が困っていたら助ける事を優先しろ」という監督の言葉にもあるように、村のおかげで野球ができるという気持ちがあるからだろう。 そして、野球部創設時に初代部員5人と監督が古いグランドの整備作業をしている映像を野球部員に見せる事で、今の自分たちがあるのは昔の部員のおかげである事を部員たちが認識しているからでもある。

地方強豪校の孤立化対策のカギに

野球に限らず、サッカーなど高校の全国大会の選手名鑑で地方校の選手の出身地を見ると、首都圏や関西圏などの都会からの越境者が多い。しかし、学校が地域から孤立してしまい、地域の活性化ではなく、学校が土地を使っているに過ぎない。 実際、甲子園や冬の高校サッカーなどの全国大会に出場することになれば、数百万円~数千万円のお金が必要になり、後援会は資金集めに奔走する。 スポーツ目的で越境入学すること自体は反対ではないが、その高校がもっと地元に根ざした活動を行っていれば、地元が協力するのでは無いだろうか? それが地域アピールにもなり、本当の意味での広告塔になりえるのではないだろうか? 本書ではそういう目的で書かれたわけではなく、純粋なドキュメンタリーだが、村と学校と野球部の良い関係が築かれていると感じた。]]>

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